>  2005/06/12 (日) 16:17:36        [qwerty]
> >  南泉の弟子たちが、一匹の猫をはさんで
> > 「これはわれわれの猫だ」「いや、こちらの猫だ」と言い争っていた。
> >  そこへ現れた南泉和尚は、猫の首をつかむと、それを突き出していった。
> > 「いまこのときに、仏の道にかなう言葉を発すれば猫は斬らない。さもなければ、この猫は斬って捨てる。さあ、どうだ!」
> >  だが、だれも答えられる者はなかったので、猫を切り捨ててしまった。
> >  夕刻になり高弟の趙州が帰ってくると、お前ならどう答えたかと迫った。
> >  すると趙州は、履いていた草履を頭に乗せ、すーっと部屋を出ていった。
> > 「ああ、お前がいたならば、ワシも猫を斬らずにすんだのに・・・」
> >  南泉は、そういって非常に残念がった。
> 誰か解説して(;´Д`)気になって仕方ないよ

 さて、この話は二本立てになっていて、第一は、南泉が猫を斬った意味、第二は、趙州の奇行とも思える、頭に草履を載せるという行為の意味を考えるのが、この公案のポイントです。

この公案について、故山田無文老師は次のように語られています。
「いつも脚に踏みつけておるものを、頭の上に載せただけのことである。
常に踏みにじられておるもの、虐げられておるものを頭に頂かれたのだ。
すなわち宗教者の本質である下坐の精神をすなおに表現されたものと思う。」
「わらじではない、一切衆生を頭の上に載せておる。
全宇宙を頭の上に載せておるのだ。南泉が全宇宙をブチ斬ったのならば、
趙州は全宇宙を頭の上に載せて生かしておる。
(中略)南泉が猫を斬ったのは、人間の所有欲をブチ斬ったのだ。
趙州が草履を頭上に載せたのは、身体も命も財産も皆さんのものです。
お預かりものですよ、と載せたのだ。」

http://www.ne.jp/asahi/choonji/namo/hanasi3-219.html

参考:2005/06/12(日)16時13分41秒