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>  2002/01/17 (木) 00:52:12        [mirai]
> 85年8月、東京(略)たぶんない。

これどっかで読んだことあるな
完全自殺マニュアルだっけ?

参考:2002/01/17(木)00時49分45秒

2002/01/17 (木) 00:49:45        [mirai]
85年8月、東京都足立区の都営団地の一室で、腐敗したふたりの女性の死体が発見された。 
ふたりはそれぞれ25歳、23歳の姉妹で、死因は餓死だった。 
死亡推定時刻は84年の暮れから85年の2月ごろとされた。 
遺体のそばには姉の字で「死んでやる」とだけ書かれた古い封筒があった。 
この姉は65年に両親と妹とともにこの団地に移り住んだが、母親は病弱、 
父親は事業に手を出し、ほとんど家に戻らず、母子家庭同然の状態で生活保護を受けていた 
もともと自閉症気味だった妹は中学に入ると手ひどいいじめにあい、学校を休みがちになった。 
姉は母親の看病をし、妹を励ましつつ、自分は商業高校に進学。 
しかし高3のとき父親が膨大な借金を抱えて帰ってきて、翌年にガンで死んだ。 
同時期には妹はパセドー病にかかり、姉の就職を機会に生活保護も打ち切られた。 
 姉は妹と母親の医療費の支払いと父親の残した借金の返済に追われた。 
その仕事熱心さは職場でも評判だったが、11万円の月収では賄いきれず、サラ金に手を出す。 
やがて返済金額は300万円にも膨れ上がり、職場には催促の電話がかかった。 
しかしそれでも姉は熱心に仕事を続けた。 
 母親は83年についに病死。しかし遺骨の受け取りは親戚から拒否され、このころから 
徐々に姉も生活に嫌気がさしてきた。 
部屋のベランダにはゴミ袋を放置し、サラ金の催促の電話にも耐え切れず 
84年の6月ごろから無断欠勤するようになり9月には退社。この9月には料金の未払いから 
電気とガスが、翌年1月には水道が止まった。サラ金の催促は連日のように団地に押しかけ 
ふたりはゴミも出さずに不在を装った。10月には隣室に食物を恵んでもらいに行ったが 
しばらくして近所の人が心配して声をかけたときには「もう構わないで」と答えた。 
この時点で自殺の意思は固まっていたのかもしれない。団地のすぐそばには地区の 
福祉事務所があったが、相談に行くこともなかった。 
 そしておそらくまず妹が死に、そして姉も死んでいった。 
春になっていっせいに蝿がわき異臭が漂ったため発見されたときには、妹はTシャツに 
スラックスをはいて姉にしがみつくようにしていたが、姉はなぜか素肌にカーディガン 
をはおり、下半身は裸のままだった。 


唖然とさせられるほどの不幸である。餓死という自殺手段は、このくらい悲惨なことが 
続いてはじめて選べるものだ。疲れ果ててしまって、心中する気力すらないのである。 
 それにしても家族4人がそれぞれみな不幸なのだが、特に姉の不幸ぶりが凄まじい。 
母親の病気、父親の借金、妹のいじめと病気、あらゆる不幸が彼女の肩にのしかかってくる。 
どんなに精一杯努力しても、決して報われない。むしろ努力すればするほど、ますます 
悪くなる。 
 彼女の人生は、自殺を肯定するか否かの踏み絵のようなものだ。 
無論行きようと思えばそれも可能だったはずだが、彼女は助けを拒んで死を選んだ。 
この人生を前にしてもまだ「生きていればいいことがある」「死ぬ気になればなんでも 
できる」「自殺は弱い者のすることだ」といったたわ言を吐ける者がいるのか? 
彼女の「死んでやる」の一言に対して切り返す言葉は、たぶんない。

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