> 2000/03/13 (月) 05:25:06 ▼ ◇ [mirai]> > いや、ある理念の裡に存ずる内包的・強度的諸系列と前-個体的諸特異性における個体化のファクタ-を
> > 再び見出すためには、知覚世界での個体化を保証してくれる「構造-他者」を実現するところの主体にまで
> > 遡る必要があるのだから、それもある意味では好意的に受容されるだろうな(;´Д`)
> 某Jさんヽ(´ー`?)ノ
しかし、そこから更に構造へと遡り、他者を誰でもない他のモノとして認識し、尚かつ充足理由律の円環を
遡行し続け、「他者-構造」が全く機能しなくなるような、諸主体と諸対象が全く機能しなくなった領域に
おいて初めて、諸特異性が純粋な理念の裡に展開、配分され、個体化のファクタ-が純粋な内包的強度の裡に
配分されるのであり、このように主観的自己同一性を統合する総合的意識との恒常的相関者である対象に
おいて経験される特異性が一般的次元へと抽象化された段階におい初めて哲学的思索こそが為されるとする
からこそ、哲学者-思索者は須く孤独で悲しき独我論者であるのであり、それを踏まえた意味において
滝沢の敗北は私の自同律を根底から揺さぶる衝動となるのであります(;´Д`)
参考:2000/03/13(月)05時11分00秒