> > 聖書の解釈の目的は歴史的事実の追及であるし、 > > ジョイスは言語学的分野から離れ、文学的解釈に終始していると思うがどうか > 聖書の解釈はニ-チェ経由の存在論的視座に立ったバルトによる新解釈が進んで > 相当数の年月が経ちましたし、ジョイスはラカンの「サント-ム」で「ジョイスのエゴ」の発現作品と解され、 > デリダのカフカの「掟の門前」膨大な読解作業論文は有名ですし、ドゥル-ズは「失われた時を求めて」を > 「無意志的記憶への潜行作業」とし評し、アンチ・オィディプスへの繋ぎとして「サドッホとマゾ」読解しましたし、 > ロラン・バルトに至っては文学作品というエクリチュ-ルは解釈の多義性を無限に許容する物質性を > 内包しているとし、「制度としての著者は死んだ」という名言を吐き捨てたほどですが、何か?(´ー`) またお前たちかよ(;´Д`) 三行以上は読まないっていったろ? 参考:2000/06/07(水)02時24分16秒