> 2000/06/07 (水) 02:27:07 ▼ ◇ [mirai]> > 聖書の解釈の目的は歴史的事実の追及であるし、
> > ジョイスは言語学的分野から離れ、文学的解釈に終始していると思うがどうか
> 聖書の解釈はニ-チェ経由の存在論的視座に立ったバルトによる新解釈が進んで
> 相当数の年月が経ちましたし、ジョイスはラカンの「サント-ム」で「ジョイスのエゴ」の発現作品と解され、
> デリダのカフカの「掟の門前」膨大な読解作業論文は有名ですし、ドゥル-ズは「失われた時を求めて」を
> 「無意志的記憶への潜行作業」とし評し、アンチ・オィディプスへの繋ぎとして「サドッホとマゾ」読解しましたし、
> ロラン・バルトに至っては文学作品というエクリチュ-ルは解釈の多義性を無限に許容する物質性を
> 内包しているとし、「制度としての著者は死んだ」という名言を吐き捨てたほどですが、何か?(´ー`)
テンプレートにレスご苦労
もういいから
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参考:2000/06/07(水)02時24分16秒