>  2000/06/07 (水) 02:29:24      [mirai]
> > 聖書の解釈はニ-チェ経由の存在論的視座に立ったバルトによる新解釈が進んで
> > 相当数の年月が経ちましたし、ジョイスはラカンの「サント-ム」で「ジョイスのエゴ」の発現作品と解され、
> > デリダのカフカの「掟の門前」膨大な読解作業論文は有名ですし、ドゥル-ズは「失われた時を求めて」を
> > 「無意志的記憶への潜行作業」とし評し、アンチ・オィディプスへの繋ぎとして「サドッホとマゾ」読解しましたし、
> > ロラン・バルトに至っては文学作品というエクリチュ-ルは解釈の多義性を無限に許容する物質性を
> > 内包しているとし、「制度としての著者は死んだ」という名言を吐き捨てたほどですが、何か?(´ー`)
> テンプレートにレスご苦労
> もういいから
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これは、、、一生涯低賃金単純肉体労働に従事するしかない精神的寝たきり老人の駄弁だね(^^;ワラ

参考:2000/06/07(水)02時27分07秒