> 2000/06/07 (水) 02:39:47 ▼ ◇ [mirai]> > 聖書の解釈の目的は歴史的事実の追及であるし、
> > ジョイスは言語学的分野から離れ、文学的解釈に終始していると思うがどうか
> 聖書の解釈はニ-チェ経由の存在論的視座に立ったバルトによる新解釈が進んで
> 相当数の年月が経ちましたし、ジョイスはラカンの「サント-ム」で「ジョイスのエゴ」の発現作品と解され、
> デリダのカフカの「掟の門前」膨大な読解作業論文は有名ですし、ドゥル-ズは「失われた時を求めて」を
> 「無意志的記憶への潜行作業」とし評し、アンチ・オィディプスへの繋ぎとして「サドッホとマゾ」読解しましたし、
> ロラン・バルトに至っては文学作品というエクリチュ-ルは解釈の多義性を無限に許容する物質性を
> 内包しているとし、「制度としての著者は死んだ」という名言を吐き捨てたほどですが、何か?(´ー`)
バルトは聖書をあくまで神学の立場から弁証法的に解釈したに過ぎないし、
ラカンにしろ精神学的見地から分析したに過ぎない。
いずれも詩の本質である言語学的文学性とは一線を画す訳で、
その意味では真なる詩の解釈とは言いがたいと思いますが?
参考:2000/06/07(水)02時24分16秒