>  2000/06/07 (水) 02:49:01      [mirai]
> > 聖書の解釈はニ-チェ経由の存在論的視座に立ったバルトによる新解釈が進んで
> > 相当数の年月が経ちましたし、ジョイスはラカンの「サント-ム」で「ジョイスのエゴ」の発現作品と解され、
> > デリダのカフカの「掟の門前」膨大な読解作業論文は有名ですし、ドゥル-ズは「失われた時を求めて」を
> > 「無意志的記憶への潜行作業」とし評し、アンチ・オィディプスへの繋ぎとして「サドッホとマゾ」読解しましたし、
> > ロラン・バルトに至っては文学作品というエクリチュ-ルは解釈の多義性を無限に許容する物質性を
> > 内包しているとし、「制度としての著者は死んだ」という名言を吐き捨てたほどですが、何か?(´ー`)
> バルトは聖書をあくまで神学の立場から弁証法的に解釈したに過ぎないし、
> ラカンにしろ精神学的見地から分析したに過ぎない。
> いずれも詩の本質である言語学的文学性とは一線を画す訳で、
> その意味では真なる詩の解釈とは言いがたいと思いますが?

つ-か、俺がこの書き込みの流れの中で言おうとしてたことは「文学・詩学作品には物質性がある」と
いうことであり、一つ前のレスではそのような「物質性」を活用した多種多様な認識論的観点からの
解釈作業の代表例を列挙したまでに過ぎないわけであるのは、参考元を遡ってくれれば分かってくれる
だろうと思うが、今君が書いたところの詩性の解釈学が文学的領域で問題となった際の「言語学的文学性」
というそれにはどのような意味合いが込められているのかってのをもう少し詳しく教えてほしいんだが、どうよ?

参考:2000/06/07(水)02時39分47秒