> 2000/08/14 (月) 23:48:46 ▼ ◇ [mirai]> (;'-')ノ えー、みなさんあと10分で盗聴法が施行されるので
> やばい話題はやめていただきたいのですが
穢多(えた)
1.新潮社
新潮社発行の「現代詩手帖」1977年10月号に載った古賀忠昭氏作の散文詩が問
題化した。母親が被差別部落出身で自分の子どもの少年を連れて再婚した。
酔った夫がその被差別部落出身の妻に酔っぱらっては醜悪な性的行為を要求する。そ
れを見た連れ子の少年が怒って母親にそんなことをするなと止めるが、母親が夫の求め
を拒めずに行う。そこで少年が怒った末に義父を包丁で刺す、というもの。
この作品の中で、酔った夫が母親に対して「けだもん」「エッタ」ということばを連
発する。そして母親が少年に「部落もんと部落もんじゃなかもんとでは雲と泥のごとニ
ンゲンの違うとよ。そんこつば忘れんごつせんとでけんよ」「今度の父ちゃんは部落も
んやなかとよ。そんヒトがうちのごたる部落もんばもろうてくれたとよ。それとに文句
まで言いよったらバチのあたる」と述べている。
作者は部落解放同盟(以下 、「解放同盟」と略)の糾弾に対して、部落差別の深刻な
状況を描いて反差別の詩を書くつもりだったと弁明したが、同作品の中には「エッタ」
ということばが17回も出てきたり、子どもに対しての母親の被差別部落についての説
明が普通の人間と違うといった風に差別的に書かれている。「エッタ」ということばが
明らかに詩の衝撃力として使われている。作者は被差別部落の生活とか現実について実
際に調べたり知識をもっていなかったようで、二度の確認会の後、差別作品だったこと
を認めて謝罪した。
2.電通
1986年9月、電通が業界紙記者を招いて行った「地域開発プロジェクト」に関す
る説明会の席上、電通・地域開発室の北村明久室長がニンニクを生産して成功したアメ
リカの町のギルロイを紹介するにあたって、「その町に住むことが、日本でいえばエタ
部落に住んでいる的な・・・」と述べた。
1987年3月3日、東京墨田区社会福祉会館で開かれた第一回糾弾会で電通側は、
「会社としての取り組みが弱かった。社員の意識も足りなかった」と自己批判し、反省
文も提出した。
3.子ども会
1978年12月、東京目黒区や千葉県の社会教育主事ら教育の専門職員三人が書い
た学事出版社刊「たのしい子ども会のゲーム集」という本の中に、替え歌遊びの「字ぬ
き歌」の例を紹介した個所で、童話「お猿のかご屋」の歌詞のうち「エッサエッサエッ
サホイサッサ」という部分の「サ」の字を抜いて「タ」に言い換え、「エッタエッタエ
ッタホイタッタ」と歌って遊ぼう、と書いてあることが分かった。
この本は1969年に出版されてすでに七版を重ねていたが、1978年12月末、
大阪府下の小学校長が出版社に「同和教育上好ましくない」と指摘するまで問題化して
いなかった。解放同盟の糾弾も行われ出版社では同書の回収に努めるとともに在庫分を
破棄し、絶版とした。
4.方言
1986年10月、「誰にでもわかる福島の方言」の中に「ばんだ=穢多(番太)=
新平民(身分のいやしい者)」と方言を解説した個所があり、全解連が抗議した。
「番太」表現については、1976年9月、NETテレビの時代劇「荒野の用心棒」
の中に何回も使用されており、誤解を避けるため放送が中止された。
5.タイム誌
1983年10月、西武タイム社が訳書を出版したタイム誌特集「模索する大国日
本」の中で次の「エタ」表現が問題となった。
「日本人の祖先は、もともと朝鮮半島から渡来してきたヒトが少なくないにもかかわ
らず、日本に住む六九万八千人の韓国・朝鮮人は組織的な差別を受けている。・・・ま
た、ひそかにエタと呼ばれている人びとの境遇はさらにひどいものである。彼らは日本
の「アンタッチャブル」なのである。肉体的には他の日本人となんら変わらないのに、
二〇〇万人から三〇〇万人のエタは多くの場合隔離地区に追いやられ、卑しい仕事をさ
せられている。仲間以外と結婚する者もほとんどなく、大部分の人びとは日陰の生活を
するよう運命づけられている。なぜこのような差別が行われるようになったかは明らか
ではないが、何世紀か前に、獣類の皮はぎや墓守りなど、不浄な仕事とみられていたも
のに従事していた人びとの子孫であるかもしれない。エタとは不浄を意味し、現在この
言葉は差別用語として公式に国語から削除されている」この表現に対し、「差別の実態
のみが強調されて極端な表現が数多く使われたり、部落差別の起源を職業とするなど読
者に誤解を与え、差別を助長するもの」との抗議が、京都市役所などから寄せられた。
出版社側は、抗議の文書を折り込んで販売するよう処置をとったが、1986年4月
発行の四十版以後、出版社が改組したこともあって増刷されていない。
6.時事通信社
1962年、「ハワイ」(ジェームズ・ミッチャー著)で「エタ」という言葉が何カ
所かに使われていた。この時、社内に「同和問題委員会」を設け、同和問題の学習を行
う旨の反省文を東京法務局に提出していたが、その「同和問題委員会」は、設置されて
いなかった。
1989年4月、「坂本龍馬と明治維新」(1985年初版、マリアス・ジャンセン
著)に次の表現があった。
「(長州を降伏させようとしたが)長州が降伏しそうもないことがわかってみると幕府
は断じてやり抜くだけの実力もなければ準備もない遠征を、それでもやらないわけには
いかない羽目になっていた。大阪方面で実力のありそうなだれかれから-なかには特殊
部落民もいたが-強制借金を集め・・・」
解放同盟は文書で抗議と善処を申し入れた。
原文は、ETA COMMUNITYとあったもので時事通信社側は翻訳の非を認めて出庫をスト
ップ、店頭から回収し、在庫分と回収分は該当ページを切り取り、「特殊部落民 」の表
現を「被差別民衆」と改めた新しい二ページ分を印刷して張りつける処置を取った。
1989年9月、解放同盟本部で社長以下幹部が出席して糾弾会が開かれ、同社は社
内に「人権学習委員会」を設置して「継続的・持続的に社内研修をしてゆく」と表明し
た。
参考:2000/08/14(月)23時47分03秒