2000/08/31 (木) 01:09:51 ▼ ◇ [mirai] 「心臓移植、ですか……?」
先生から、栞の快復の可能性についての話があるということで呼ばれた診察室で私は、言葉をかみしめるようにして、今までの生涯で初
めての単語を口にしていた。
「うん、そうだ。栞ちゃんの病気は、いわゆる難病。根本的に治療することが困難なそれだった。彼女の心臓は、元々弱かったのだが、
原因も特定できないままにその力がどんどん弱くなっていってしまっている。我々としては手の尽くしようのない状態だったんだよ」
先生から何度か聞いたことのある、妹の病状の説明。その言葉の端々には、何もできなかった自分への無念さを滲ませながらも、それ
でも今、目の前に広がりつつある、栞を助けることができるかもしれない可能性にかける気力がほとばしり出ていた。
先生は少々高潮させた顔でこころもち身を乗り出して言葉を続ける。
「しかし、そう言ったものを全て超越して彼女の体を治すことができる可能性。それが、心臓移植だ。元々移植の登録はしていたのだが
ね。如何せん今のこの国では、移植というのは、まだ徹底されていないし、人々の認知度も高くない。だから実際のところ、なかなか難しい
と思っていたんだ」
私はただ頷く。
移植。
ドナーカード。
最近になってようやくテレビのニュースなどで聞くようになった言葉だ。
逆に言えば、そう言う、ニュースの中の世界のこととばかり思っていた。それが今、眼前に、妹の命を救う可能性として広がっているの
だ。
なんとなく現実味のない会話だったけれど、でもそれは今の私に欠くことのできないものとなりつつあった。
それでも、世界は意外と私の近くにあるんだなあなどとぼんやり考えることを止めることができなかった。
「ところが、君が見つけたあの少女。月宮あゆさんというのだが、彼女の袂にあったドナーカード。全ての臓器を提供しますということ、そ
してサインもしてあった。彼女はドナーとしての資格を持っているんだよ」
少しだけ興奮気味に言葉を並べる。
「彼女はずっと意識を失っていた。目を覚まさなかったんだ、7年前から。我々としても手を尽くしきって、今ではただ、寝かせておいてあ
げることしかできない患者さんだった。ところが…」
そう。ところが私は、彼女を、栞がICUに移って空になったはずの315号室で見つけた。あゆさんという方は、もっと全然違うところに、7
年前から眠っていたそうだ。
なんでも、長期の意識不明に陥った人はあまり動かさない方がいいらしく、よってあゆさんの眠る部屋を動かそうなどという計画は一度も
持ち上がったことはなく、当然今回もそのようなことをした人はいないということだった。
「実に不可解な事態だが、つまり……」
「つまり、月宮さんは自分で一時的にせよ意識を取り戻して、そしてどこからか手に入れたドナーカードに書き込むべき事を自ら判断して
書き込み、サインまでして、そして315号室に入って栞のいたベットに入って、そしてそこを私に発見されたということですか」
先生は私の言葉に、いささか疑念の色を浮かべながらも頷いた。
私はそんな先生の様子を見て、何となくうつむいて考え込んでしまう。
きっと先生と私とが思ったことは同じようなものだっただろう。
私のそんな仕草をどう受け取ったのかはわからないけれど、先生はそのまま話を続けられた。
昔、一通りあゆさんのことを調べたので彼女についての様々なデータがそろっているそうだが、その断片的な情報からの判断では、彼女
の心臓が栞のそれと似通った性質を持っている可能性が高いこと。つまりは拒絶反応を起こす危険性が高くないこと。
もちろんこれにはきちんとした精密検査が必要なことを、彼は付け加えることを忘れなかった。
栞の容体はもはや予断を許さない段階にまで入ってきていて、いわゆる移植の順位を待つ人の中でも最上位にいること。それと、あゆさ
んの体質を比べあわせれば、おそらく彼女の心臓移植が行われるとすれば、移植相手となるべきは栞であろう事。