>  投稿者:>(゚ ο ゚ )  2000/09/06 (水) 07:37:27      [mirai]
> > ほうとう息子
> さて、これは普段なら空白無能的一行書き込みとして無難に看過されてしまう類のものであろう。
> しかし、この書き込みに込められた深意を読みとれるモノが幾ばくかいるであろう?
> まず「ほうとう」という言葉は次ぎに続く「息子」によって前後の文脈関係から限定される。
> 一般的には「ほうとう息子」という語句単位は、「放蕩息子」として解釈される。
> しかし、このここで留意すべきは「ほうとう」が漢字でなく、敢えて平仮名表記に付されているところである。
> つまりこの「ほうとう」は「放蕩」以外の、「ほうとう」の可能性が示唆されていることを示しているのである。
> 「ほうとう」には他に「宝刀」「法統」「報答」「朋党」「訪島」などの漢字表記があるわけだが、
> ここで「宝刀」が選出されることで、一般的な「ほうとう息子」の正反対の意味内容が提示されるに至る。
> つまりここでは対象の両義性が根源的に命題化されているのである。
> 人間実存の両義性、つまり単独的実存と社会的実存の、可能性と不可能性の、純粋性と空虚性の、
> 公的言語と私的言語の、現実界と象徴界の、ル・サンボリックとル・セミオティクの、エロスとタナトスの
> 偉大と悲惨の、線条的時間と円環的時間の、歴史と自然の、男と女の、又は善と悪の、そのような
> 二律背反に引き裂かれる人間実存の根源性をこの言葉は捉える。
> このことを甘く見てはならない。我々はこのような危うい均衡関係の中に生を営むのである。
> 次ぎに「息子」である。息子に絶対的屈従を要請するエディプス的父、これが超自我の隠喩と
> されるのであれば、息子はその構造的な限界性の中で抑圧され、不条理性に投げ出された
> 人間存在の本来的実相を指し示すことになる。
> つまり、この書き込みには、生の不条理性、不可能性に苦悶し、且つ二律背反の鎖に
> 結びつけられた人間実存の本性を言及し、言語が行為遂行的次元の超越論的条件、
> 言語がある行為遂行を常に既に想定している、つまり話すという行為が他者的-非同一的なモノを
> 形而上的前提とする限りにおいて、この書き込みは「原-言語」の領域野、つまり「超越者」の
> 言語領域に自らがあることをその記号の現前性の裡に提示し、言わずもがな、それは「存在の秘密」を
> 自らが掌握していることを謙虚なささやかで宣言しているのである。嗚呼、なんと恐ろしき書き込み!!!

そう よかったね

参考:2000/09/06(水)07時34分44秒