>  投稿者:   2000/09/06 (水) 08:34:02      [mirai]
> > 一連の神学的思弁にも似た眩惑を前に、この書き込みを目にした私は驚倒せんばかりの興奮に震えた。
> > 「すきとかきらいとか、、、」、、、この言葉にはバクーニンが聖書に看取したところの自由の根源性が
> > その閃光を目を覆わしめるばかりの強烈甚大さで鳴り響いている。
> > 「すき」「きらい」、、、これは単純素朴に読みとれば、価値判断の情動的次元を示している。
> > それはカントが言うような、構想力によって想定された対象に合目的なものを感受することで
> > 惹起される感情作用としての「美」の個別性を強調し、ロマン主義的二元性に見られる
> > 普遍性の美的基準の無効性を主張しているのである。
> > 次ぎに「さいしょにいいだしたのは」であるが、言語が行為遂行的次元の超越論的次元であると
> > いうデリダの視点に立ちながら、聖書の「初めに言葉があり」を読みとれば、その初めにあった
> > 「言葉」はそれ以前にある言語を形而上的前提としているのである。つまり「原-言語」であり、
> > 神の言葉である。つまり、ここで「さいしょにいいだした」のは、原初言語の起源者、つまり神ということになり、
> > 神はその世界の始源でゲーテからユングに至るまでのロマン主義の思考様式を否定していることになる。
> > つまり後にサルトルが楽園からの乖離性に発見する「自由」の根源的条件の先験性をこの書き込みは
> > 明示していることになる。
> > 最後に「だれなのかしら」であるが、この「誰」が神-先住者であることはその前部で明証されている。
> > にも関わらず、この言葉が選出されるのは、近代市民社会の倫理的基盤であった「神」の死を
> > 宣告したニ-チェ以降の、我々の精神を他律する雑多な価値が相対的に共生する神なき現代人の
> > 悲惨がここで詠われていること以外の何物でもない。これは本来的倫理性に立ち返ることの
> > 出来ない資本主義的市民社会に埋没せざるを得ない人間実存の絶望を明確に浮き彫りに
> > しているのであり、我々にその本来性の倫理意識を取り戻すことの重要性を警鐘する
> > 極めて現代的な素晴らしき章句なのである!!
> 長いょ

この章句の素晴らしき先見性を指摘するにはこれでもまだ足りないぐらいなのである。
何故か?
面倒なので省略するが、まあ、そういうことなのである。

参考:2000/09/06(水)08時31分43秒