>  投稿者:   2000/10/15 (日) 03:03:59      [mirai]
> > それは天と地と神々しいモノと死すべきモノの四者の単一性が生起する反映の戯れを
> > 収集し、滞在させる「物」における「開示性」でしょ(^^;ワラ
> 世界内存在としてある主体と、解釈を迫るテキストとしての世界との解釈学的循環
> を前提とした思想潮流にその主要な場をあけわたしている現代において、創造とは
> 解釈の能動性の発揮、または解釈の背後に横たわる深層構造の発露の鍵としかなり
> 得ないわけで、つまりそれを開示することなのさ

なるほど、主体がテクストに読みを投入する循環構造を通して、その主体相互の有機的な
コミュニケ-ションが可能になると同時にそのテクスト内容はその循環構造のうちに
全体性を顕在化するわけだが、しかし、そのような解釈学的循環のうちには他者性の
問題というモノが暴力的且つ排他的に圧殺されることにより、エクリチュールの
不可能性としての散種的多様性が多義性へと捏造的、欺瞞的に実体化されてしまうという
倫理的貧困の問題が生じると同時に、解釈学的自足性を絶えず破断させ、創造性を
活発化させる異質的他者への排他性の問題による創造的貧窮が生じてくるという
ダブルバインドが常にあるわけで、そこを踏まえなければ間主観性以降の間テクスト性の
現代においては何にもならないわけで、デリダの最近の政治参加の原因もそこにあるわけさ

参考:2000/10/15(日)02時49分35秒